幼 稚 な 夢



小 坂 光 一


機器にこだわる ― 機器もひとつの芸術品だ

私は写真をよく撮るが写真家ではない.目の前にある写真がいい写真であるか悪い写真であるか,判断する能力もない.
100円ショップやスーパーマーケットにはよく行く.目的は「アイデア」を盗むためだ(絶対に「商品」を盗んだりはしないから安心してください).高級なブランド物には興味がない.ブランド品は,品質はいいかもしれないがアイデアに乏しく,面白みがない.


一方,100円ショップやスーパーマーケットで売られている「安物」はアイデアに満ちている.だからそのアイデアを盗み,手持ちの製品を加工して理想的なものに変える.これは実に面白い.


写真機(カメラと言わずにあえて写真機と言おう)は私にとっては「夢を運ぶ機器」であり,「写真を撮る道具」ではない.できあがった写真そのものは「写真機のモニター」に過ぎない.「モニターとしての写真」を見て写真機の良し悪しを判断する.これこそが面白いのだ.


私にとってのいい写真機というのは次の条件を満たす必要がある.


1. レンズがいいこと(いい写真が撮れるものでなければならない)
2. 小型軽量であること(理想形は蛇腹式フォールディング・カメラ)
3. 機能が省略されていないこと
4. フィルムサイズが大きいこと(デジカメの場合はCCDが大きいこと)
5. 見た目がいいこと(機器そのものが芸術品であること)


しかし,このような条件をすべて満たした写真機はなかなか見当たらない.特に,2と4を同時に満たすことは本質的に矛盾する.よって,理想に近いものを買って幼稚な加工をすることになる.その結果として,私の部屋は写真機だらけになってしまった.40台以上あるだろうか.


5は所有者の好みに左右される.なめらかな形体の機器が好きな人もいるだろうし,いかにもメカメカした物に惚れる人もいるだろう.私の場合は後者であり,見た目が退屈感を与える物は好きでない.


皆さんは二眼レフカメラというものをご存じだろうか.撮影用のレンズの上にファインダー用のレンスが付いた縦長の写真機だ.これは上記の2以外の条件をすべて満たしているが,2の条件だけはクリアできない.


そこでドイツでは「蛇腹式フォールディング二眼レフカメラ」というものが考えられた(私が知らないだけで,恐らく他の国にもあっただろう).1930年代の話だ.これこそが私も何度か夢想した「夢の追求」である.


だが二眼レフカメラにはその形状からくる欠点が1つある.それは真四角な写真しか撮れないということだ.理屈としては細長い写真が撮れるようにすることも可能だが,フィルムが下から上に(あるいは上から下に)巻き上げられる構造である限り,真四角を避ければ縦長の写真になってしまうのだ.やっぱり横長の写真が撮りたい.写真機を横に構えれば済むことだが,それでは二眼レフである意味がなくなる.かと言って,フィルムを横方向に巻き取るようにすればものすごい図体になってしまう.


そこで写真を横長にし,かつ本体をコンパクトにするためにドイツ人が考えたことは,横長写真のときにフィルム室を90度回転させる蛇腹写真機を作ることだった.撮影のときは図体が大きくなるが,持ち運ぶときはフィルム室の向きを元に戻し,さらに蛇腹の部分を折りたたむ,という訳だ.


夢のような理想形だが,この種の写真機を私は持っていない.今や骨董品になってしまったこの種の写真機は非常に高価で手が出ない.それに,折りたたんだ時の見た目があまりよくないし,思ったほどコンパクトにもならない.


私はドイツに行くとき,持ち合わせている写真機の中から数台を選び出して持って行く.最近はそれにデジカメも加わる.ドイツへ行く表面上の目的はもちろん他にあるのだが,実際は「写真を撮りに行く」と言ってもいい.しかも,「写真」を「撮る」と言っても,目的は「写真」の方ではなく,「撮る」ことの方だ.行く場所がいつも同じなのだから被写体もいつもほとんど同じだ.だから同じ場面の写真を何度も撮っている.何度撮っても同じ写真はできあがらない.そこが面白いところだ.


写真そのものについて語る資格は私にはないが,芸術品の価値は「作品(という結果)」にではなく,作品に至る「過程」にあると思っている.いい写真にするためには,被写体の選択,構図,焦点距離,フォーカス,コントラスト,色彩などのテクニカルな調節が大事だ.しかしこれらは,いい写真であるための「前提」に過ぎない.そして,写真を見る人はこの「前提」しか見ることができない.「判断の前提」が満たされている写真をみて,「ああ,いい写真だ,きれいな写真だ」と判断する.


だが,単なる記録写真でも芸術品になりうる.撮る人と見る人の間で経験・空想・記憶などが何らかの形で共有されればいい写真になる.「作品(という結果)」は「さまざまな過程が具現化したもの」だと言えるのではないだろうか.

 

(【annual bulletin of 「clas」2012、名古屋大学教養教育院プロジェクトギャラリー「clas」アニュアル 2012】より)